酒の肴 No.3
2000/03/21

「桃の節句の話」

2000/02/22 仙台MLに投稿

<桃の節句>
養老雑令(奈良時代)によると、正月一日(元旦)、七日(白馬(あおうま))、十六日(踏歌(とうか))、三月三日(上巳(じょうし)・曲水)、 五月五日(端午)、七月七日(七夕・相撲)、十一月(大嘗(おおんべ))の中の、上巳の節句が、それです。
〜災い転じて福となす〜
昔中国では三月の初めの巳の日は凶日とされており、その日水辺に出て手足を清めることでその厄を落としたこと(つまり、祓いですね)から、「巳日祓(みのひのはらえ)」と言われるようになり、日本に伝わります。日本では、紙や草などで人の形に作った「形代(かたしろ)」に身の汚れを託して祓うという「形代信仰」がありました(6月末日、12月末日に、晦日のお祓いをしますが、そのとき参殿できないとき、形代を使いますよね。それです)。お祓いの「形代」がやがて「人形(ひとがた)」に代わり、草やわらで作った人形でからだをなでてその人形を水に流す、後々「流し雛」に変わっていきます。
「流し雛」では、「身」と「巳」をかけて、お祓い行事である上巳の風習と、「禊(みそぎ)」の行事と結びつき、巳の日祓いと称し、身のけがれ・わざわい・厄災等をその人形に身代わりとして、これを川や海に流すことで厄災をはらう行事と変化したわけです。
さて、この上巳(じょうし)の節句は、平安時代の宮中になると、三月初めの巳の日の、風流な遊びとしての曲水の宴に変わって行きます。水辺というキーワードは同じです。この宴は水の流れに杯を浮かべ、身の汚れを払うというものでした。中国の「曲水の宴」では、杯を自分の前を通過する間に、詩を作るという、優雅な遊びに変わり、日本でも和歌を詠みお酒(避け、という意味を込めて)を頂く行事に変わっていきます。
一方、平安時代、宮廷の婦人や子どもたちの間では「ひいな遊び」という遊びが行なわれており、これは紙で作った人形と、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶものや、投扇興や貝合わせ
なども行われ、いあば"ままごと遊び"のようなもので、もちろん、女の子の遊びです。このことは、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」にも出てきます。
"すぎにしかた恋しきもの、枯れたる葵、ひいな遊びの調度"「枕草子」
時代が進むと、お祓いの意味が薄れていき、人形(ひとがた)から変化した「流し雛」が、「ひいな遊び」と結びつき、貴族子女の間で雛遊びとなり、それが女の子の健やかな成長を祝う式日として定着したのが、雛祭りというわけでしょう。
この、室町時代の末頃から始まった雛祭りは、平和が訪れた江戸時代に華麗な女の子のための行事となって確立していきます。寛永六年(1629)京都の御所で盛大な雛祭りがおこなわれた
のをきっかけに、幕府や大奥でも雛祭りをおこなうようにり、やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まってゆきました。
雛壇を設けるようになったのは江戸中期からで、それまでは畳みの上に毛氈を敷き、雛人形や調度を飾っていました。やがて、豪華なものも作られるようになり、現在まで習慣として残ってきます。
地方によっては、旧暦に行いますが、このことは丁度海開きというか、潮干狩りのシーズンに近く、上記の貝合わせの習慣と結びついて、はまぐりを食べる習慣も根付きました。

なぜ、桃の節句というのか、諸説がありますが、本来は悪い日とされていた三月三日に、実(実を結ぶという意)の形が邪気を払う呪力があると信じられていた「桃」を飾ることによって、魔を払おうとしたのが始まり(桃太郎の伝説もそうですね)とか、京都では丁度桃の花が咲き始めるからとか、いわれています。

さて、雛祭りのお菓子としては菱餅を沿えます。なぜでしょうか。諸説あるようですが、一番もっともらしいのは、赤にはクチナシの色素がふくまれ、解毒作用があり、白い部分には血圧をおさえる作用があり、緑のもちにはヨモギが入っていてり造血作用(血を作ること)があるといわれて、かつ、菱形は心臓をかたどっているといわれているそうです(何となくこじつけっぽい)。
なお、京都では、菱餅に加えて、引千切などを供えるそうで、女の子が誕生すると贈られたと伝えられているそうです。

さてさて、辛党は、白酒よりも「桃花酒」ですね。中国の故事に、水に流れている桃の花を汲んで飲んでみたところ、気力が充実して三百歳まで長生きしたとあるそうで、「桃花酒」は諸病を取り払う効果があるとか、ま、何か理由を付けて、酒を呑むってことで。
村松淳司