酒の肴 No.2
2000/03/21

「節分の話」

2000/02/02 仙台MLに投稿

 節分は、「季節が分かれるとき」ならいつでもそうですから、立春に限らず、立夏、立秋、立冬などの前日はすべて節分といいます。旧暦の正月がこの頃であることから、立春=新しい年、と捉えられているのでしょう。実際、中国の大晦日(除夕)の儀式に、「逐儺」がありました。『呂氏春秋』には「前歳一日撃鼓驅疫癘之鬼、謂之逐除、亦日儺」とあり、この「儺」は原始社会の巫舞を元した踊りで、西周から春秋戦国にかけて民間で盛んに行われました。それが漢の時代に宮廷でも行われるようになり、さらに盛大な鬼遣いの行事に発展しました。これが「追儺」の原型です。
『後漢書・禮儀志』によると、東漢の宮廷では、十歳から十二歳までの小僧を一二○人選び、頭に赤頭巾を被らせ、黒の衣裳を着させて、太鼓を打ち鳴らして応援の役をさせながら、一人の大男が方相氏(悪疫を払う術者)に扮して、黄金の四つの目の面具をつけ、熊の皮を身につけて盾と矛を持ち、十二人の猛獣に扮したお供を連れて踊る、という「追儺」の儀式をやており、最後は、赤頭巾の百官は宮殿の門の前に立ち、踊りの後、火把で端門から悪鬼を追い出し、悪鬼を永遠に水の底に沈ませる儀式を行います。
朝から隋唐五代にかけて、漢と同じように追儺を行いましたが、隋の南朝の人数は漢の倍にふえました。宋代以後、追儺の内容が次第に変わり、明・清の時代には「かまど踊り=鍾馗踊り」となり、それは、人々が顔を真黒にして町中を踊りめぐり、観衆はそれにお金やお米を与えました。つまり、昔の鬼やらいの追儺風習が、次第に娯楽的な風習に変わって来たことを示しています。本質的には、民衆は疫病の本質を完全に認識できず、神と方術の力を借りて、疫病と悪鬼を追い払ったというものです。
追儺の日本伝来は、文武天皇の頃で、『日本書紀』によると、慶雲三(七○六)年「是年天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」とあり、大舎人の一人が仮面をかぶって方相氏の役をつとめ、内裏の四門をめぐって悪鬼を追いたて、殿上人も桃の弓、葦の矢で鬼を射立てたとあります。これはその後、宮中だけでなく、神社や寺院、また上流階級にひろがりましたが、鎌倉時代以降はすたれました。しかし、追儺の行事は、やがて室町中期に中国から伝釆した「豆まき」の風習と合流し、二月の節分に行われるようになりました。正月と節分は時間的に接近しており、時には重複することもありましたので追儺が節分の行事へと自然に移行したのでしょう。
漢の人は悪鬼を畏れ、特に大晦日に悪鬼が侵入するのを心配しましたので、桃の木を削って、それに神茶・鬱壘という二神の絵を書いて門にかけました。これが、中国の門神の起源だそうです。桃の節句につながるものでもあります。
春を迎えるにあたって邪気や災難を払い、新しい年の福善を願った追儺の儀式は、立春の前、つまり節分と結びつき、「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」等と俗に称せられるようになったわけです。室町時代以降、宮中では官職の者が鬼の姿をして災害や疫病などの災いに見立て、また黄金の仮面に矛(ほこ)や盾(たて)を持った者が豆を撒きながら悪魔悪鬼を追い払い新しい年を迎えたそうです。
また、『看聞(かんもん)日記』によると、節分に豆で邪鬼をはらう行事が室町時代の京都で行われたこと(応永三二年)が、『臥雲日件録』によると、立春前夜に家ごとに豆をまき、「鬼は外、福は内」と唱えた(文安四年)と記されています。
後世になりますと、一般の神社やお寺でも節分の夜に豆まきが行われるようになりました。江戸時代にはいると宮中の行事ではなくなり、民間で広く行われるようになり今日に至っています。
ただし、中国と日本の決定的な違いは、「鬼」の捉え方にあります。「鬼」の「おに」とは「隠」のことで、隠れていてふしぎな働きをするもののことを鬼と考えたのかもしれません。つまり、「鬼」は、人間を捕えて食べてしまうという恐ろしい属性がある反面、時と場合によって、人々に「富」を授与したり、危険を救ったりするという属性もあわせ持っている、という点で、実際、金太郎は足柄山の山姥によって育てられたとされています。中国の妖怪はつねに妖怪であり、決して神となることはなく、神は常に妖怪に対立した存在で、両者はあくまでも対立しているのに対し、日本人の神観念では、「神」とされていたものが「妖怪」化(たとえば、伊弉冉尊(イザナミノミコト)は死して悪魔の世界に入ったり、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、乱暴を働いて天界から追い出されたが、やまたのおろち退治をした)したり、「妖怪」であったものが「神」になったりしています。柳田国男曰く、妖怪とは「信仰が失なわれ、零落した神々のすがた」。
さて、地方によっては節分の晩のことを大晦日と同様にオトシトリとよんだり、あるいは年齢を数えるのに節分を目安としていたとか、節分の豆を年の数だけ食べればよいといったことなども、一年のはじまりという意味で、この日は元旦ともどもたいへん重要な節目の日と考えられていました。
節分には昔から鰯の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して、鬼門や門口にはさむ風習があります。悪い鬼は鰯の臭いのと、柊は「鬼の目突き」といってトゲがあるので逃げ出すのだと説明されています。鬼門とは北東の丑寅(うしとら)の方角をいいます。
さて、節分の行事に太巻きの一気食べ、があります。1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げたのが、全国に広がるきっかけだったようで、元祖は愛知県とか兵庫県とか言われています。恵方というのはその年に美しき歳徳神がいる方角で、今年は、西南西。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになったようです。
日本の伝承による御年神は、陰陽道の歳徳神と合体し、さらに祖先の霊が加えられて、年神という新たな霊魂に統一されたと考えられます。日本の年神は元旦に「恵方」から来ます。神は常在しません。年中家族と一緒に暮らす中国の竃神と違って、日本の歳徳神は人間の世界に来訪する神だなのです。歳徳神とは、奇稲田媛命(クシナダヒメノミコト)=櫛名田比売命のことで、素戔嗚尊(スサノオノミコト)の奥さんです。
歳徳神の方角は、
年の十干  在座する方位
甲・己の年 寅卯の間 甲の方位
乙・庚の年 申酉の間 庚の方位
丙・辛の年 巳午の間 丙の方位
丁・壬の年 亥子の間 壬の方位
戊・癸の年 巳午の間 丙の方位
のように決められ、毎年違うようです。
参考文献
1.国際日本文化研究センター
 http://www.nichibun.ac.jp/
 「日文研フォーラムデータベース」
 「正月の風俗−中国と日本」
 遼寧大学日本研究所副所長・馬 興国 氏
2.山形県最上郡真室川町・長泉寺(しあわせ地蔵尊の寺)
 http://www.ic-net.or.jp/home/yaguchi/index.htm
など

追儺は、「ついな」と読んでくださいまし。

さて、豆まきの話です。
節分は本来、迎春の儀式、呪術です。春は五行では木気に配当されるそうで、その木気が苦手とするのは、「金剋木」の理から金気だそうです(この辺はそうなんだ、と思って下さい。私もよくわからん)。さらにその金気を封じるのは、「火剋金」の理から火の性質を有する行為または呪物を求めるんだそうです。そこで、節分に使われる豆は金気に該当するので、まず火で煎ること(火剋金)、さらにそれが、鬼門封じに結びついた、と説明する方もいます。また、生豆を使わな
いのは、拾い忘れたものから芽が出るとよくないことがあるから、とも。
一方、鞍馬の鬼退治で、毘沙門天が「大豆で鬼の目を打て」と命じたという話が伝わっているそうで、鬼の目を打つので「魔目(まめ)」、また「魔滅(まめ)」につながるともいいます。
また、別の説で、佐渡ヶ島での昔話。神様が鬼退治の時に、鬼と「夜のうちに100段の石段を作る」という賭をしました。鬼は、99段まで築きましたが、あと1段というところで朝になってしまい、くやしがって「豆の芽の出ることにまた来るぞ」と言い残し退散しました。そこで、神様は、豆の芽がでないように人々に豆を炒るように命じたと。
あるいは、極単純に「マメになる」につながるとも言いますが、元々中国から伝わったことを考えると、元来五行の考え方があったのでしょう。
地方によっては、豆を鬼打豆といい、炒った大豆を一升枡に入れ、いったん神棚に供えておき、撒くときは母屋の各部屋より外に向かって大声で、だそうです。
「下に落ちた豆を食べるなんてきたない」といって、大豆ではなくピーナッツを使う場合がありますが、この風習は新潟地方から広まったそうです。

<付録>
「鬼は外」と言わないところのリスト:

青森県弘前市鬼沢・鬼神社
 鬼が御神体として祀られ、農業の守護神です。岩木山の赤倉から下りてきたという鬼が、やせた土地の開墾と農業用水の建設を行い、村に豊作をもたらしたことから、鬼に感謝するため、神社を建立して「鬼神社」と名づけ、村の名前も「鬼沢」としたそうです。ですから、「鬼は内」。
宮城県村田町
 渡辺綱がこの地で伯母に化けた鬼に腕を取り返され、鬼が逃げてしまったので、鬼が逃げないように「鬼は内」になったそうです。
福島県二本松
 「鬼は外」の「ワ」の音を抜かして、「おに、そと」。 二本松藩の殿様は丹羽氏なので、「鬼は外」と言うと「お丹羽様外」 になってしまうからだとか。
群馬県鬼石町
 昔鬼が投げた石でできた町と言われており、鬼は町の守り神になっている。そこで近年では、全国から追い出された鬼の安住の地をう たっており、「福は内、鬼は内」といい、全国から逃げてきた鬼をねぎらうようです。鬼恋節分祭=180kgのおにぎりをみこしにしてかつぐ「鬼義理道中」や「鬼の婚礼行列」など、鬼のふるさとにふさわしいイベントが盛り沢山なまつり
つくば市鬼ヶ窪地区
 鬼が地名につくことから「鬼は内」というところも家庭によって残っているそうです。
埼玉県武蔵嵐山・鬼鎮神社(きじんじんじゃ)
 平安末期に畠山重忠の館・菅谷館の鬼門を守るために作られた神社だそうで、鬼が御祭神。鬼が邪気から人々を守ってくれるということになっており、江戸時代から鬼が豆をまいて厄払いをするようになったそうです。「鬼は内、福も内、悪魔外」。
川崎市千蔵寺
 本尊が厄神鬼王(やくじんきおう)。「鬼は内」と鬼を暗くした堂内に呼び込みます。住職が鬼たちに説教をして、悪い鬼は改心させ社会復帰させるそうです。
新宿歌舞伎町鬼王神社(きおうじんじゃ)
 鬼が御祭神なので。「鬼は内、福は内」。
東京都台東区・鬼子母神(仏立山真源寺)
 恐れ入谷の鬼子母神。「福は内、悪魔外」で「鬼は外」とは言わない。
愛知大須観音
 鬼の面が寺宝なので、「鬼は外」は言わず、「福は内」のみ。
岐阜県可児郡御嵩町・鬼岩福鬼まつり
 鬼人・関の太郎が福鬼としてよみがえり、豆まきをして厄払いをするという節分のおまつり。福鬼が主役のこのおまつりでは、豆まきのときに「鬼は内、福は内」。
奈良市中院町元興寺
 元興神(がごぜ)という鬼がいて悪者を退治すると言い伝えがあることから「鬼は内、福は内」。
熊野本宮宮司・九鬼(くがみ)家
九鬼一族の本拠地。「鬼」という字はもともと「神」の意味なので、 ここでは「福は内、カミは内」と唱える。なお、この一族は、鬼の子孫であることを自認し、他の村とは正式な交際を避け(実際には一般人と同じだが、そういう、しきたり)もせず、鬼の舌に似ているため、雛祭に菱もちをつくらなかったり、鬼の角に似ているために、端午の節句にちまきを作らないなどの風習があったそうです。今は違うのでしょうけど。

<番外編>
東京世田谷区・喜多見氷川神社・節分祭(鬼問答・大黒舞)
 豆撒きが行われる前に、青・白・赤・黒の鬼が現れ社殿に上がろう とするが、それを拒む神官と問答になる。
 鬼「鬼は内と声がした」
 一同「言わぬ、言わぬ」
 神官「悪しき鬼どもだ」
 問答に負けた鬼にスルメを与え、桃の弓といり豆にて「鬼は外」と
 鬼追いをし、もとの住み家へと追い返す。
 鬼が逃げた後、一同東をむいて「福は内」と豆を撒くってな寸法。
 イザナギの神が桃の実を投げ悪鬼を払った古事にならっているとのこと。
その他、鬼問答の行われる神社
 台東区上野公園・五條天神社
 秩父市・秩父神社
変な節分行事
 「ごもっともさま」埼玉県大滝村・三峰神社
  •    3尺位の野球のバットのようなもので先に注連縄(しめなわ)を巻き、根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものを突き出す神事
村松淳司