酒の肴 No.1
2000/03/21

「端午の節句の話」

1999/06/22 仙台MLに投稿

あやめ、菖蒲....
6/18は旧暦の5/5でした。
昔はこの頃だったんでしょう。閏5月とかありましたから、少しずれていたとは思うのですが...

ちょっと、端午の節句について、わらしσ(^-^)が、まとめたものがありますので、転載します。この中で、芭蕉のことが書いてありますが、芭蕉は旧暦の5/4仙台に入っています。3泊したあと、5/8には多賀城に来ています。
“おくの細道の山ぎはに、十符の菅あり”と奥の細道に書いてありま
す。“おくの細道”とは現在の岩切、十符の菅(とふのすげ)があったことから、利府町を“十符の里”と呼んでいますね。

では、端午の節句、各説をまとめたものをご笑覧下さい。

○「端午の節句」ちまき説
楚の国に生まれ、二人の王に忠誠を尽くしましたが、同僚の妬みを買って追放され国を憂いながら石を抱いて川底へ沈み、帰らぬ人となったその人が、屈原ですね。紀元前278年5月5日、汨羅(べきら)江という川でしたが、この愛国詩人の死を悲しみ、屈原の身体を魚に食べられないようにと、たくさんのちまきを作って汨羅江に投げ入れて、屈原の身体を魚から守ったといわれているようです。で、その入水した日(五月五日)を記念し、男の子は彼のように正しい信念をもって行動してほしいとの願から始まったのが、この日に「ちまき」を食べる「端午の節句」だそうですが、端午との関わり合いが今ひとつわかりませんね。
さて、そのとき投げ込まれたちまきは、竹筒に米を入れ、オウチの葉に巻いたものだったといいます。さて、このように、中国のちまきはもち米に水だけが基本で、発展形として水に油脂を加えて練ったもの、あるいは塩味の肉やピーナッツが入ったもの、あるいは、なつめ、小豆、砂糖などが入った甘いちまきなどもあるようで、日本のちまきとは若干異なるものもあるようです。もちろん、地域によってちまきの皮が笹、竹、ハスの葉、形が長方形や三角形などと異なるように、味覚もそれぞれに異なりようです。
ところで、ちまきは元々、中国で水神の捧げ物として水中に投じられたことを起源とする食べ物であるそうです。先の尖ったユニークな形は、水牛の角を表現しているということです。
○「端午の節句」:菖蒲説
端午の「端」には元来“初め”という意味があって、「午」は五と同音であることから、初めの午の日あるいは毎月の五日のことを、古くは端午といっていたそうです。五月五日に限らないわけですね。
さて、中国では邪気払いの一つとして、子供の厄払いを行っていたようです。この日生まれは不祥の子とされたという説もありますが、本当かどうか。で、中国からの伝来はたいへん古く聖武天皇の御代(八世紀)にはもう菖蒲や蓬で厄除けをしている記録があるそうです。中国では古来5月は悪い月とされ「午」の日を特に嫌っていて、蓬で人形を作って門口にかけ邪気を払う行事が行われたとされています。あるいは、この日に菖蒲酒(しょうぶざけ)を飲むなどして、邪気を払う行事が行われたとされています。
中国から菖蒲が伝えられ、日本では、五月という月が「物忌み月」で、田植えを間近に控え、身体を清める月であり、邪気を払うために菖蒲酒を飲んだり菖蒲湯に入ったりする習慣が出てきたようです。菖蒲の香気は邪気を払うといわれ、魔除の薬草とされていたようですね。この風習は、奈良時代に起こったようです。
秋田県西仙北町では、6月下旬に「しょびこ打ち」という、菖蒲を縛って、地面を打ちつけて、邪気払いをする行事があります。また、端午の節句を前にして、夜に軒端に菖蒲を葺く習慣があり、「奥の細道」にも、
“名取川を渡って、仙台に入る。あやめ葺く日なり。”
という記述があります。ちなみに、芭蕉は、“あやめ草足に結ばん草鞋の緒”という句を残しています。(5/5旧暦)
さて、ここまでは、男の子と直接結びつくのはありません。この菖捕が「尚武」と同音であることから、武家では男子のお祝いとして、甲冑や刀などを飾り、勇ましく成長することを祈ったのが、始まりだと考えられます。これがのちに形を変えて、武者人形飾りとなったのでしょうね。
なお、菖蒲湯にはテルペンという植物性の精油成分が含まれ、この成分がお湯に溶けると塩素と反応して柔らかなお湯にしてくれます。ゆず湯にも同じ効果があります。
○「端午の節句」:女の節句説
田植えの関係から五月は重要な月とされ、物忌の月で、男がではらったあと、女が家に残され、家を守っていた。この時期に、村の青少年に成年戒、成女戒が行われました。また、「さつき忌み」といって早乙女(=五月女)が田植えをする行事があったともいわれ、それらの行事が、中国の風習が習合したもの、それが、端午の節句、であるという説ですね。
なお、この季節は、岩手では、農耕馬の発育を願った、ちゃぐちゃぐ馬っこの行事があります。

なお、中国、特に台湾は日本とちょっと季節感が違うので、「端午節(端午の節句)」は一度目の収穫を終えた後、という区切りでやっていたようです。他にも、「春節(正月)」「元宵節」はそれぞれ、冬耕作のできないときや、お正月休みがちょうど終わった時期にやり、
「清明節」は春と夏の耕作の間。
「中元節」は夏の暑いとき耕作ができない時期、
「中秋節句(十五夜)」は一年最後の収穫のとき。
「重陽節(重陽の節句)」は冬を迎える準備をしている頃、
「冬至」は陽気がよくなってきて冬の寒さが去った頃に行われるということです。

節句について:
中国では唐代には節句の風習が確立していたらしいです。三月三日の桃節(漢代の人物の三月始めに生まれた三女が三日ののち皆亡くなったことを不吉として厄払いした)五月五日の端午、七月七日、九月九日(重陽、高いところにのぼり祝う)や12月23日(かまどの神の祝い)などがあって近隣諸国に伝わったようです。
日本の「五節供」は江戸幕府が制定したといいます。しかし、すでに奈良時代に「節日」は定められていたようで、正月一日(元旦)、七日(白馬(あおうま))、十六日(踏歌(とうか))、三月三日(上巳(じょうし)・曲水)、五月五日(端午)、七月七日(七夕・相撲)、十一月(大嘗(おおんべ))を指します(養老雑令)。
で、これらの日には、天皇が出御して宴会をやり、「節会(せちえ)」と呼ばれました。平安時代には「御節会」が定められて、「元旦」「白馬」「踏歌」「端午」「豊明(とよのあかり)」(新嘗会の翌日)の五つの節会であったようですね。「五節会」と呼ばれましたが、江戸幕府が制定した「五節供」は、元旦を含みません。これは、別格扱いというわけでしょう。
人日は七草の節供、上巳は桃の節供、端午は菖蒲の節供、重陽は菊の節供などと季節の植物と深くかかわっているのは興味深いです。七夕にはこうした呼び方はしませんが、七夕竹が立てられて、平安時代には「撫子合せ」、室町時代には七夕法楽に「花合せ」が行なわれてい
ます。「いけばな」に最も関係の深い節供が、七夕であるという話です。

さて、端午節会は尚武の催しとして幕府の年中行事として重要視され、この日、諸大名は江戸城に使いを出し将軍に祝いを述べ、ちまきや柏餅を献じました。

ちなみに、この柏餅のように、草木の葉で包まれていたり、巻いてあったりするお菓子というものは、古くからあり、「源氏物語」で書かれている「つばきもち」が柏餅の原点になったとされていますが、それ自体の歴史は比較的新しいもので、江戸時代の寛永年間だという説があります。で、なぜ、五月五日に食べるようになったのかは不明です。
さて、柏がいい、というのは、次の中国の伝説?が根拠になっているのではと思います。
「荊楚歳時記」に「正月一日、長幼悉正衣冠、以次拝賀、進淑柏酒、飲桃場、進屠蘇酒、惨牙賜、下五辛盤」とあり、淑柏酒(山淑と柏葉をひたした酒)を飲んでいます。正月の話ですが。
漢の「四民月令」には「淑是玉衡星精、服之令人身軽能走、柏是仙薬」晋の「抱朴子」には、山中で飢えていると、一人の老人から、松柏の葉実を食べることを勧められ、食べたところ、最初は苦くて渋かったが、そのうち慣れて食べていると飢えることもなく、冬の寒さも夏の暑さも感じなくなり、その齢は二百を越えたという記述があります。
さらに、明の李時珍の「本草綱目」では、「柏は凋落することのない、多寿の木である。道家がこれを湯に点じて常飲し、また、元旦にこれを酒にひたして邪を辞けるのは、この理由である」とあります。
なお、ちまきの方の歴史は古く、10世紀始めにはもう作られたという記録があるようですね。なお、ちまき茅の葉でまいたところから茅巻(ちまき)と呼ばれたようです。
余談ですが、鬼の子孫と称する家系の人々は、鬼の子孫であることを自認し、他の村とは交際もせず、鬼の舌に似ているため、雛祭に菱もちをつくらなかったり、鬼の角に似ているために、端午の節句にちまきを作らないなどの風習があったそうです。
現在では、和歌山県にこの子孫があるようです。
村松淳司